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その男は僕が中学2年の頃、宇宙から僕の目の前に落ちてきた。

 

当時の彼と今の僕の年齢が一緒くらい。

やっぱり憧れは憧れ。僕は彼の様な妖艶なおじさまにはなれなかった。

 

訃報を聞いたのが1年と少し前。

出勤前、キッチンから観てた朝のニュース番組で、彼という存在がこの世界から消えてしまった事を知ってボロボロと涙が溢れてきたのを覚えている。

とんがってた14歳の頃から物分かりのいい大人になった今の今まで、僕の中ではあいも変わらず出会った頃そのままの姿で、彼は宇宙へ還って行った。

 

 

グラミーで最優秀ロック楽曲賞、最優秀ロック・パフォーマンス賞、最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞、最優秀アルバム技術賞を受賞した。

 

おめでとうボウイ。

でも本当にこれが最期のお別れみたいで寂しくもある。

さよならボウイ。

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Uターンラッシュのホームで車窓に隔てられたしわくちゃな手と小さな手。

小仏トンネル渋滞のニュースは風物詩。

正月の帰省から戻ってきた。

街がまた、いつもどおりに動き始めている。僕も明日から仕事が始まる。

束の間の再会と名残惜しい別れは、差し引きするとちょっとだけ心をくたびれさせている気がしなくもない。歳を取ると故郷に置いてきたものを余計に懐かしく、愛おしく感じさせる。

 

この休暇中は深夜から早朝にかけての中途半端な時間に目覚める事が多く、そんな時は決まってASKAのブログを読んでいた。いくつかコメントも書いた。年末年始は更新が相次いだ。

 

人の数だけ言い分はあるけれど。

 

寄せられたコメントは信者の賛美が圧倒的多数を占め、あとは寄る辺を無くしたファン或いは元ファンの困惑や更生への切なる願いが散見された。それからお定まりの誹謗中傷の類。

後者は個人的に好みじゃないし、あるべき姿でも無いと思うけど、現代の人間はサイバースペースをこうやって消費する。言うまでもなく現代人がネットで織りなす表現の集大成だ。僕らが知的な生命としてもっと進化した後年、芸術の流派や建築様式みたいに語られるのかも知れない。結局僕のコメントもまたそれを構成する要素であり、埋没する小石の一つに過ぎない。

 

すれ違うのは言葉だけであってほしい。

 

本人のブログで主人公たる本人が何を語ろうと自由である。でもね。「背中で語る」とか「無言のうちに語る」ではブログにならないけど、「語るに落ちる」という言葉もある。

 

「DADA」「ダダ」

 

真っ先にウルトラマンに出てくる怪人を思い出した。

wikiで調べるとやはりその怪人もルーツは一緒の様だ。

そしてそのウルトラマンで思い出した、昔拾った名も無い一つの小石。饒舌な主人公にそっと渡したい。以下はその引用。

 

「最近の主人公は喋りすぎ。ウルトラマンとか見習え。」

 

僕もまた、喋りすぎた。

もどり橋

俳優の根津甚八さんが亡くなられた。

ニュースキャスターが彼の名を読み上げるのを聞いて真っ先に思い出したのはタイトルのドラマだ。放送されたのは僕が中学生くらいの時だったと記憶している。

子供の様な真っ直ぐで純真な心を持ったまま大人にはなれない。つまり大人になるという事は、そういう事なのだ。しかしドラマの中で根津さんは子供の目をした大人を見事に演じきってみせた。中学の頃の僕が観て、今でも彼の代名詞の様に覚えているのだから間違いない。

今年も多くの訃報があった。晩年を病魔に翻弄された名優も、宇宙から落ちてきたグラムロックのスターも、気持ちがすれ違ったまま疎遠になっていたかつての親友も。

「また明日ね」と言えない別れが増えてゆく。
つまり大人になるという事は、そういう事なのだ。

空に帰った彼等のご冥福をお祈りします。

roy

timestamp

時計の針の進み具合は、その時を過ごす人、その時の心持ちによって様々。

 

3時間。 

 

今日の持ち時間はあっという間に過ぎた。アルコールが核心を遮る間を繋いで。

 

明日は3日ぶりに娘に会える。

僕が居なくても、例え永遠に居なくなろうとも、幼子はやがて大人になる。

 

明日また会える小さな小さな命は、心は、僕に向かってどんなコマンドを打つのか?

スケールを伸ばしても正しくは計れない成長。昨日と今日と、そして明日の行間。

辿々しく綴られた文章。曖昧で舌ったらずの言葉の羅列。

 

けれどそれは彼女なりに意味を持つ文脈。僕は果たしてそれを原文どおりに読解できるのか。

彼女が意図せず発するクイズは、楽しみでもあり、怖くもある。

 

”幼子の歩く日は サーチライトの中ミュージカルの景色で。 すれ違う顔よりもクルミを割れたあの日。好きだった空色のシャツを脱いだ。”

 

今日見る景色は今日までの指定席。 

 

君は僕の書く、意味のある落書きをうまく理解できないかも知れないけれど。

ただ、ただ、愛してる。

 

おやすみなさい。

 

roy

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オモコロで活動されているヨッピー氏が「テキストサイト同窓会」なる記事を書かれていた。侍魂、フォント弄り、ReadMe!懐かしい。

 

90年代の終わり頃だったか、ミレニアムを迎えてたか記憶は定かじゃないけど、僕もテキストサイトの管理人だった。「涅槃」というサイトでroyと名乗っていた。HNは映画ブレードランナーでルドガー・ハウアーが演じたレプリカントのリーダーの名だ。

15年以上経っても変わらず今でもサイバーパンクは好きだ。nirvanaというサイト名はオルタナティヴ、グランジのバンド由来ではなく沖雅也からだ。彼が好きなのでは無く、彼によってこの言葉を知ったという意味で、なんとなく言葉の響きがなんだかカッコよく思え、また、そんな場所にしたいという願望があったから付けた名だった。

 

自分が青春を過ごした時代を礼賛、賛美するのはどの世代の誰にも共通して言える事だと思う。この僕も例外では無い。あの頃はネットが今より特別で、サイト管理人は未開の地に入植したフロンティア。自分も含め彼等自身、各々のスペースに愛着を持っていたと回想する。

だから僕はテキストサイトに取って代わったブログやmixiに代表される諸々のSNSFacebookなんかに興味を持てなかった。大衆が寄ってたかって日常生活を垂れ流して共有し、ネットが特別なものではなくなってしまったと思ったからだ。元来ネットというものは革新的なコミュニケーションツールとして誕生し発展してきた訳だし、SNSは需要に則した進化の形あって、僕の言い分がもともとリア充じゃ無い人間のただのやっかみである事は否定しない。

ただ、15年以上経つと人も変わるもので不惑を少し超えた僕は最早ぼっちでは無くなり、妻と娘と犬一匹を家族に迎え、そんな彼女等(犬はメス)の写真をLINEのプロフィール画像に使い倒している。

 

また何か書きたいと思い立って今日ブログを開設した。ASKAがやってたからこのブログサービスを利用する事にした。彼の「FUKUOKA」を聴いてたらなんとなく郷愁に駆られたという事も大きい。

”sweet and good memories

僕のニューシネマパラダイス

人生は前後左右 いつも未解決

誰も同じ”

 

 今日から、、、もう日付が変わって昨日からか。仕事で暫く隣県に滞在する。チェックインを済ませてホテルの部屋から妻と娘にビデオ通話をした。それから一人になって、出かける前の日の朝スマホで撮ったサンタクロースからのクリスマスプレゼントを見つけて喜ぶ娘の動画を何度も繰り返し観た。

あと15年経ったら何が当たり前になるのか。今日の事を懐かしく思い出す日が来るのかな。久しぶりに書く日記はとりとめもなく、何が言いたいのかよく分からないけど、これが僕の今日。

 

ありがとう、おやすみなさい。

 

roy